ヨハネ3章

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

 ニコデモは、パリサイ人であり、律法に精通していました。

 パリサイ人であることは、律法について厳格であることを表しています。

 また、彼は、議員であり、民の指導者でした。彼は、イスラエルの教師と言われてます。

ピリピ

3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、

3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

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3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ニコデモは、イエス様を教師と言い表しています。彼の関心は、イエス様から教えを乞うことでした。教師である彼をそのようにさせたのは、イエス様とともに神がおられると確信したからです。それは、イエス様のなすしるしを見たからです。

 律法についてよく知っている彼が、更に教えを乞う理由は、神の国に入ることについて知りたかったからです。すでに確信を持っているなら、わざわざ教えを乞う必要はないのです。しかし、教えを求めることは、神の国に入ることについて確信がなかったことを表しています。

3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 さて、人は、新しく生まれなければ、イエス様の栄光の姿を見ることはできません。新しく生まれるとは、後に語られるように、水と御霊によることです。

 神の国を見るとは、主の栄光の姿の前に立つことを表しています。それは、地獄に落ちる者ではないことを表しています。これは、報いとは関係していませんので、「見る」という表現は、救いの立場を持つことを意味しています。

 ニコデモに、このように語られたことは、ニコデモがいわゆる救いの立場さえ持っていないことを表しています。それは、当然のことといえます。しるしをもって神が共におられることを示す方が来られたのです。彼は、イエス様を神の御子と信じる必要があったのです。

 彼は、律法守ることにおいて熱心でした。しかし、彼は、自分の行いが神に良しと認められて、報いを受ける確信がなかったのです。イエス様に教えを乞うことを決心しましたが、イエス様のお答えは、報いを受ける以前の問題として、彼が救いの立場を持っていないことを指摘されたのです。

 神の国については、以下参照。

ルカ

9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

→神の国を見るとは、イエス様の栄光の姿を見ること。下記の考察から、御国に入ることは、報いを受けることです。それに対して、御国を見ることは、報いとは関係なく、イエス様の栄光の姿を見ることです。

ルカ

17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

→神の国は、天も含め場所のことではない。イスラエルの国でも教会堂でもない。また、ある解釈では、「神の支配の及ぶ場所」としていますが、まず、神の支配は、全てに及んでいるのであり、特定の人あるいは集団ではない。信者のことであるとする解釈があるが、信者は、神の支配が及んでいるということになるが、必ずしも完全に服従しているわけではない。どの程度従えば、神の国と言えるのか。信仰を持っているということであれば、神の国は、信者を指している。ただし、ここで質問しているのは、パリサイ人である。到底信じているとはいえない人たちである。また、信者であるとすれば、神の国に入るとは、どういう意味か。信者になることが神の国に入ることなのでしょうか。ペテロは、すでに信者になった者たちに向けて、「神の国に入る恵みを豊かに与えられる。」と言っています。これは、矛盾しています。

 神の国に入るとは、御国を相続することであり、報いを受けることです。報いは、少なくとも、称賛と光栄と栄誉であることがわかります。

 「いつ来るというようなものではなく、あなた方の只中にあります。」彼らは、いつ来るのかと尋ねました。この地上に神の国という国が築かれると考えていました。しかし、イエス様は否定されました。ですから、いわゆる千年王国は、神の国ではありません。その後の新天新地も神の国ではありません。神の国の相続は、報いを受けることです。神の国は、報いを受けることと言い換えることができます。あなた方の只中にあるというのは、神の御心に適う歩みをするならば、神の国に入るのです。すなわち、報いを受けるのです。神の御心を行うことが神の国なのです。一人一人の歩みにかかっています。

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・「新しく」→原意は、「上から」。ただし、天を意味する上からではなく、そのものに関し、上から。初めから、てっぺんから、改めて、新しくなど。

・「神の国を見る」→イエス様の栄光を見る。

3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 ニコデモは、新しく生まれることは、肉体が改めて新しく生まれることと考えました。そのようなことが可能なのかと問いました。

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 「まことに」とは、大事なことを語るときに言われる言葉です。二回続けたことは、とても大事であることを表しています。

 イエス様は、「神の国に入る」ことに言及なさいました。それは、ニコデモが悩んでいたことで、神の御心にかなう良い行いができないことについて教えを乞いに来たのです。イエス様は、その本題に触れました。

 神の国に入るためには、水と御霊によって新しく生まれなければならないのです。これは、御言葉を信仰を持って受け入れることと、御霊によって歩むことを表しています。もはや、ニコデモがしてきたように、肉の力にはよらないのです。そのことは、肉によって生まれた者は、肉ですと言われたとおりで、肉体が新しくされたとしても、肉であり、神の御心に適う実を結ぶことはできないのです。

 御霊によって生まれた者は、霊です。霊が、新しく生まれるのです。具体的には、以下の聖句によります。

ガラテヤ

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

エペソ

3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、

3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

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 もはや、肉の力で生きるのではありません。律法に対して死に、肉に対して死んだものとして歩むのです。そして、御霊によって強められ、信仰によって、キリストが自分の心の内におられることを信じるのです。その方は、自分を愛して十字架に命を捨てた方であり、その計り知れない愛を知るのです。そうするならば、もはや肉は頭をもたげることはありません。そうすると、その人のうちで働くのはキリストです。ですから、その人自身は、神の様になるのです。それを神は、全能の力で実現されるのです。人にとって不可能と思われることを、父は実現されます。そのことを信じるのです。それこそ信仰が要求されす。

・「水」→御言葉の比喩。

・「御霊」→御霊。

・「によって」→マタイの系図にも使われているように、生み出す母体「によって」という意味です。「タマルによってペレツが生まれ。」~から。生み出すものは、水と御霊です。

・「神の国に入る」→神の国を相続する。すなわち、御国において、この地上でなした良いことに対する報いを受けること。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 御霊によって生まれることは、確かなことなのです。「不思議に思ってはなりません。」と言われました。信仰によって受け入れることなのです。

 その生まれる最初は、風がどこから来て、どこへ行くのかがわからないように、人にも分からないように新しく生まれるのです。

 風を比喩として用いましたが、風は、御霊の比喩です。また、「風」という語自体が「霊」という語と同じ語なのです。

3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

 しかし、ニコデモは頑なでした。イエス様について、神が共におられ教師と言い表していながら、イエス様の言われることを信じませんでした。「あり得るでしょうか。」と言い、どうしてそのようなことが可能なのかと言い、神がそのようなことをなすことができることを否定し、信じないのです。

3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。

3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。

 イエス様が、ニコデモの態度を厳しく指摘したのは、彼は、イスラエルの教師であり、自分も聖書を学んで知っていること、また、民に教えたことを自分が理解できないからです。しかし、これは、ニコデモが理解し信じるようになるようにするためです。「分からないのですか。」と言われたら、「分かりません。」というでしょうか。分かろうと努力しないでしょうか。

 イエス様が語られたことは、今まで誰も経験したことがないことではなかったのです。聖書を読めば、御霊によって歩んだ人がどのようなことをしたかが記されています。神の霊が下ったときに、完全に神の御心に適うことをしたのです。また、イエス様がイスラエル王として立たれる預言に関して、すべての民に御霊が注がれることが同時に預言されています。その時、ひとは神について教えられる必要がなくなります。律法が心に刻まれるからです。彼は、全能の神が御霊によって働かれることを聖書の言葉から知っているはずなのです。

 そのようなことを知っていながら、御霊によって神の御心に適うことができる者となることを信じませんでした。

3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

 イエス様が話されたことは、地上のことです。人がどのように変えられるかということです。信仰により、御霊によって神の御心を行う者になるのです。

 それは、地上のことですが、もし、イエス様が天上のことを話しされたとして、それならなおさら信じることができないのです。「どうして信じるでしょうか。」ときつい言い方をしたのは、ニコデモが信じようと努力するようにに導くためです。

 私は、天上のことを知りたいと思います。御国に入るとは、どのようなことかを知りたいところですが。。。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

 誰も天のことを自分で見たこととして語ることができる人はいません。しかし、天から下ってきたイエス様は、それができるのです。このように言われたのは、イエス様がこれから話すことが天上のことであるからです。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

民数記

21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

21:8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

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・「燃える蛇」→火に焼かれる蛇のことで、呪われた者が神の裁きに服することを表しています。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 イエス様は、荒野での蛇の話をされました。それは、神に対して罪を犯した人々に対して、神が裁きのために火の蛇を送ったのです。火は、神の評価を表していて、彼らの罪のためにそれは裁きとなったのです。神様は、蛇によって表される呪いを送られました。民が神様に叫んだときに、神様は、青銅の蛇を旗竿に上げなさいと命じました。仰ぎ見た者は、生きたのです。これは、信仰を持って信じることで生きたことを表しています。

 なお、青銅は、清いことすなわち罪の汚れのないことを表しています。それは、イエス様のことです。清い方が、蛇の形をしたように、呪われた者となったのです。イエス様がこの話を引き合いに出されたのは、イエス様を信じる者が生きることを示す比喩となっているからです。

 その蛇のようにイエス様も上げられると言われ、十字架にかかられ、神の裁きを受けることを示されました。そして、信仰によって蛇を仰ぎ見たものが生きたように、イエス様を信じる者が生きるためです。

 信じる者は、永遠の命を持ちます。永遠の命は、イエス様がはじめに話されたように、御国で報いを受けることまで含まれています。「生きる」と記されていたように、命を与えれて生きるのです。

3:16 (なぜならば)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 さらに詳細に語られて、これは、神がされたことです。独り子の御子をお与えになりました。ニコデモには、父にとって独り子がいかに尊いかは、アブラハムがイサクを捧げた記事からよくわかったはずです。

 「お与えになった」というのは、木に上げて呪われた者として裁かれたことです。罪を犯した者が生きるために、すなわち永遠の命を持つために、大きな犠牲を払われたのです。

 御子を信じる者が一人も滅びることがなく、永遠の命を持つのです。これは、神の業であり、御自分の御子を信じる者を義とします。滅びることがないのです。そして、新しく生まれて生きる者とされ、御国において大いなる報いを受ける者となるのです。

 ここには、神の愛の偉大さが示されています。「実に」と強調されています。その愛は、ひとり子をお与えになったほどの愛です。神という語が冒頭に示されいて、すべてを支配する方の権威が示されています。その力ある権威者が独り子というかけがえのない唯一無二の方を与えた犠牲の偉大さが示されています。

 その目的は、一人として滅びることがないためです。永遠の命を持つためです。その祝福のために御子を犠牲にされたのです。人とって最も良い幸いを図られたのです。

 その祝福は、御子を信じる者に与えられるのです。神様の備えは、これ以上ない幸いなものです。それを信じて受け入れることだけが求められています。

 その祝福は、永遠のいのちを持つことです。これは、ニコデモも求めていたことですが、神の国に入ることです。神の国に入ることは、単にいわゆる救いの立場を持つことだけではありません。御心を行って実を結び、天で報いを受けることを含んでいます。御心を行うことで、報いを受けるのです。栄光を受けるのです。

 なお、この永遠のいのちを救いの立場であると捉えますと、イエス様を信じれば、とりあえず地獄に行くことがない救いをいただくことができるという意味の救いと考えてしまいます。ですから、信じて救いの立場をいただくが、その後に神の言葉に従うかどうかは、別の判断であるかのように考えます。そのようなわけで、神の愛をひどく低いものに考えてしまうのです。神様に喜ばれないような信者がいても、救われたいるから良いのだというような考えも出てきます。神様にとって、本当は喜んでいないけれども、救いの立場を与えるという愛を与えられたと考えるのです。そして、もっと真面目なクリスチャンにしても、自分は不完全なものであるから、神に喜ばれていないと考えるのです。

 しかし、神の愛は、私たちが永遠のいのちを持つことです。神の御心を行い、主イエス様と父が一つであられたように、私たちが主と一つになって生きることがいのちなのです。不完全な罪人が、御心を行う者に変えられるのです。そして、永遠の栄光を受けるのです。また、御心を行うことで、主と一つになり、主の栄光を知ることになります。これが永遠のいのちです。

 冒頭には、理由を示す接続詞があり、前節とつながっています。ですから、十五節で、区切りとすることは、文法上の誤りです。

 これは、天上のことなのです。ニコデモが見ているイエス様は、地上でのことです。しかし、神が御子を遣わされたというのは、天上のことです。誰も見ていないし、見ることができないことです。

3:17 (なぜならば)神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 そして、神は、世を救うために御子を遣わされました。世を裁くためではないのです。

 冒頭には、理由を示す接続詞があります。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

 繰り返して、御子を信じる者が裁かれないことが示されています。

 その一方で、信じない者は、すでに裁かれています。

3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

 信じない人がすでに裁かれている理由が示されています。彼らは、いつまでも信じることがないからです。

 信じようとしないのは、彼らの行いが明るみに出されることを恐れるからです。光に照らされると自分の行いが悪いことが明らかにされるからです。それで、光を憎みます。

 光は、真理を示すものです。その真理とは、イエス様が父の御心の内を歩まれたことまたその結果、栄光を受けられたことです。イエス様については、「光が世に来ている」と記されています。これは、イエス様のことです。特に、イエス様が父の御心だけを行われている歩みを指しています。

 人々は、自分の行いが悪いために、イエス様が示しておられる光よりも、闇を愛しました。それは、罪のうちを歩むことです。彼らは、それを愛しました。

3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

 真理を行う者は、イエス様と同じように、神の御心を行う者のことです。真理を行う者は、光の方に来ます。光は、イエス様の歩みです。イエス様と同じ歩みを求めるのです。言い換えるなら、信仰によって心の内にイエス様が住まうことです。それによって、その行いが神によってなされたことが明らかになります。それはもう、御霊によってなされる神の業なのです。

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。

3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。

3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」

 イエス様もヨハネもバプテスマを授けていました。ヨハネの弟子とユダヤ人が論争した内容については清めについてです。弟子たちがそのことを受けてヨハネに言いました。それは、イエス様がバプテスマを授けていることです。それは、弟子たちにとって驚きをもって受け止められたのです。そして、皆があの方の方に行っていることを問題と考えました。

3:27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。

3:28 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。

 ヨハネは、自分の神から与えられた役割について弟子にもう一度明確に語りました。

3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。

3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 その上でヨハネがどのよう考えているかを弟子に証ししました。イエス様を花婿に、自分を友人に例えました。花嫁は、イエス様を信じる人々です。ヨハネは、花婿の友人として喜んでいるのです。

 なお、これは、旧約の聖徒と新約の聖徒の立場の違いについての比喩ではありません。

 ヨハネの弟子たちの中には、イエス様とヨハネを同列に見る考えがあったのです。彼らが本当にヨハネの証し通りにイエス様が神であることを受け入れていたならば、イエス様のもとに行ったのです。

・「なければなりません。」→義務がある。ふさわしい

3:31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

 イエス様は、別格であることが証しされています。この方は、上から来られた方です。この方は、すべてのものの上におられる方です。

3:32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

 この方は、上である天で見たこと、聞いたことを証しされます。しかし、誰もその証しを受け入れないのです。

・「証し」→証言。

3:33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。

3:34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。

 しかし、その証しは、神からのものです。ですから、その証しを受け入れることは、神が真実であることを確かに認めたことになるのです。

 この方の語ることが神の言葉である理由が示されていて、神が御霊を無限に与えられて、神の語らせる通りの言葉を語るからです。

 御霊が無限に与えられるとは、御霊は、文字通り霊ですから、量のことではなく、御霊がどれだけ働かということです。御霊が働く程度は、その人が自分を覆い、捨てる程度にかかっています。父が御霊によって制限なく働くことができるのです。

3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。

3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 人が永遠の命を持つかどうかは、御子を信じることにかかっています。父にとって御子は、それだけ重要だからです。父は、御子を愛されて、すべてをその手に与えられたのです。その方をないがしろにする者に対して、神の怒りを下すのは、当然なのです。